明るい月光が照らす夜。暫く前から独り、窓際の淵に座りその月を眺めていた。
まるで魅入られてでもいるかのようにただ、ぼうっと…白く輝くそれを見つめていた。
細く開けられている窓から吹く風が、時折その青年の髪を揺らしては流れていく。
「眠れないの?」
ふいに後ろから掛けられる声。
寝ていたと思っていたのに……その人物は何時の間にかベッドから立ち上がりこちらを眺めていた。
問いに答えるわけでもなくゆっくりとそちらへ顔を向ける。
「何を考えていたの……」
何も言わない自分に豪を煮やしたのか、俺に歩み寄りながら苛立たしげに次の質問をする。
その色を感じ、流石に黙っていられなくなり
「……お前の事かな…」
覇気の無い笑いと共に、そう嘯いた。
嘘つき。とにべも無く、瞬時に切り返して少年…ルックは壁に凭れずるずるとそのまま座り込む。
きっぱりと否定される言葉に苦笑する。しかし、本当の事だったから……それ以上何も言えなかった。
最初の問い、考えてしまっていた事……正直に伝えるのは躊躇われ、其の侭また暫く沈黙する。
「ちょうど……今日だったよね」
数分、静かな時が続いたから…よもや、寝たんじゃないだろうな?と思い視線を彼に戻すと同時に、ぽつりと声が聞こえた。
主語の無い……しかし、意味がわかるものには通じるその言葉に目を見開いて息を呑む。
言い淀んだ本当の理由を……まさか、今日この日の意味を彼が知っているなんて。
「……知ってたのか」
驚きを隠せない、呆けた声を漏らした。多くは知られていないはずの数年前の今日の出来事。
実際見てもいない……だが、夢で何度も繰り広げられた情景が再び脳裏に甦る。
薄れかけた思いが溢れそうになり、苦しげに俯くと……じぃ…と見つめる緑の瞳と視線がぶつかった。
無機質な硝子のようなそれは、やはり感情を窺い知る事は出来ない。何となく居心地の悪さを感じて頭をかいた。
「……少し、感傷的になっちまってるな……」
自嘲気味に溜息を吐き、誤魔化すように額に手を当てて軽く頭を降る。
こんな様子では、聡いこの少年には見抜かれてしまっているだろう。自分が何を想い、未だ抱えている心を……寝ているからといって、油断してしまったようだ。
(起きてくるとは思わなかったからな…)
誰に聞かせるわけでも無い言い訳を自分にして、僅かに開いていた窓を閉めた。
カシャン…と、静寂な部屋に音が吸い込まれる。
それを合図に衣擦れの音も無く、立ち上がって自分に近づく気配を感じていた。
「やっぱり、まだ忘れられないの……?」
耳元で聞こえる声…くすぐったさよりもその内容に身動ぐ。
直接的なそんな事を彼が聞いてくる事はなかったから…答えが知れているその問いを。
同じ答えを、あえて聞かせろと言うのか……
「わかってるだろうに……」
深く息を吸い込んで動揺を抑え、頭を巡らせてルックの顔を見る。
「忘れられないんじゃなくて…忘れないんだ…」
今までに何度も人に……自分に繰り返した答え。
彼に言う事への逡巡はあった。でも、言える事は1つだったから…誤魔化してもこの少年の前では無意味だろう。
「……そう」
簡潔に返される素っ気無い相槌。自分で聞いたにも関わらず、興味の無いような素振。
ルックの心中が掴めず困惑した表情を浮かべた俺に返されたのは…彼には珍しい、苦笑い。
「特に意味は無いよ……別に構わないと思っているから」
後ろを向いて、俺の腕に背を凭れさせる。顔を見せないのは内心を隠す為か……どうせ、彼の表情は何も語りはしないが。
「普通、焼きもちとか…焼く場面じゃないか?」
重くなってしまったこの場に耐え切れず、冗談めかして言ってみる。乗って来るとも思わなかったが、くす…と聞こえた笑みに少しだけほっとしたのも束の間――
「そんな無駄な事しないよ」
がらりと変えた調子で、きっぱりと強く切り捨てられた。
迂闊な発言をしたのかと内心で舌打ちする。振り返って見つめる瞳には、僅かだが咎めるような色。
取り繕おうと口を開きかけた時、ふ…っとその瞼が伏せられた。
「勝ち目が無いでしょ?」
「………ルック…」
ぽつり…と、息と共に吐き出された言葉に、戸惑い……どう声をかけて良いのかわからなかった。
あまり自分の事を言わない彼の……想いを垣間見ている。
「一番強い記憶のままで、変わらないんだから…アンタの中で」
「…………」
淡々と言う彼に、沈黙でしか返事の出来ない自分がもどかしい。
瞳を閉じて俯いた少年が…そんな事は有り得ないけれど、今にも泣き出しそうな感じがして、どんな言葉もそれを触発してしまうような、危機感を覚えていた。
でもね……と顔を上げた時にはもう、今までの雰囲気を払拭し……にっこりと微笑んで俺に身体を寄せる。
微笑みは、動かないそれよりも……解り辛いのに。
「そのままで良いよ」
「ルック…?」
擦り寄る小さな身体を抱き締めながら、困惑した頭はルックの声を呆然と聞いていた。
ころころと変わる彼の本意を掴めない。……いや、掴ませない様に…しているのだろう……
「さっきも言ったけどね…忘れなくて構わないから」
首に腕を回し微かに唇が触れる位置で静止して、少年特有の少し高い声で言う。
感じる吐息が近づいて、柔らかい唇が瞬間掠められた。
条件反射のように目を閉じた俺には、その一瞬見せたルックの表情はわからない。
ほんの数秒の暖かい感触が離れ、言いたい事は終わったとばかりに絡ませた腕と身を引かせる。
眠そうに生欠伸を噛み殺しながらベッドへ向かう少年に神妙な面持ちで聞いた。
「お前はそれでいいのか?」
「良いって言ってるでしょ」
間髪おかずに返る、迷いの無い答え。
「今ここに居て、アンタが僕を見てる…それだけでいい」
キシ…と、ルックの体重に古ぼけたベッドが軋んだ。
補足するように、納得させるように言葉は続けられる。
「彼女にはもう、出来ない事だからね…これだけは」
言い聞かせているのは、俺にか……それとも自分に、なのか。
「ルック……」
自分の気持ちを持て余していた。
強がりなだけじゃない、諦めでもない……そんな想いに、応えたいのに……
だから、
祈るような気持ちで呟いた。果たして、何に対してまでは定かではなかったけれど。
そして……それが気休めにもならない事を、知っていたけれど。
「俺は…お前の事が好きだよ……」
「……知ってるよ」
―――― それが僕と違う種類だって事も
――――
心中で落とされた想い、は……青年の耳には届かない……
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