1:月に恋した狼男


煌々と満月が輝く夜。こんな日は、闇が降りる前から身体の血が騒ぐ気がする。
漆黒の髪と瞳を持つ少年――…名を恭弥と言う彼は、部屋の影で、窓から差し込む月光を見つめていた。
ほんのり黄色がかっているように見える光。今日は雲もなく、深夜だと言うのにずいぶん明るいようだ。

床を照らす光をじっと見詰めたまま、恭弥は一歩踏み出そうかどうか、迷っていた。
彼はこの上なく月の光が好きで、全身にそれを浴びるのが好きだった。
けれど、彼にはそれを躊躇する理由がある。

(まぁ…、月に1度の事だし。ばれる事もないとは思うけれど)

どうしようか迷ったのは30分程度。結局、その誘惑には勝てないのだ。
これほどに月に焦がれるのは、きっと己の中に流れる血のせい。
恭弥は軽く溜息をつくと、暗闇から歩み出て窓際へと近づいた。

気持ち良さそうに光を浴び、顔を天へ向ける。
真っ暗な中に浮かぶ、輝く月は本当に美しくて。
うっとりと目を細めて笑みを浮かべた時。少年の身体に変化が起こった。

「――――」

徐々に、少年であった姿が形を変えていく。
時間にしてほんの数分だっただろう。黒髪の少年はいつしかその場から消えてしまっていた。

そして、変わりに現れたものは。
黒がかかった銀毛を、ぶる…と震わせ。合わなくなった衣服を振り落とした。
それは予備動作の一つもなく、軽々と窓を飛び越えると。
見事な毛並みを靡かせて、暗闇へと消えて行った。





彼が向かっているのは、この街の裏山にある森の一画だった。
誰にも邪魔されず、月光を浴び続ける事の出来る静かな森。
その場所で月光浴をするのを、何より好んでいた彼は、一直線にそこを目指す。

少年であった容姿はあとかたもなく、今、道を疾走しているのは、一匹の狼。
彼が躊躇していたのは、通常街中に居る事のない獣の姿を見られる事にあった。

月を見たくて見たくて、仕方がないのに。満月の光を浴びると、変身してしまう。
こんな異様な素性を持っているのだから、大人しく部屋で眺めていれば良いのだが。
変身したら最後。どうしても外に飛び出したくなってしまうのだ。

(見られても、捕まるような事はないけどね)

駆け抜ける風を心地良く浴びながら、恭弥はほどなくして森についた。
彼のような存在を、童話では狼男とでも言うのだろうか。
しかし絵本で見るような半人ではなく、彼は完全に獣の姿に変体していた。
その不思議な存在を「どうして?」と聞くものは誰も居ない。彼の秘密は、誰にもばれていないからだ。
秘密がばれる事は、彼にとっては重要な問題になるだろう。
だが、月に魅せられた少年は、危険を侵してでも、月と共に過ごす一夜を止める事が出来なかった。

恭弥は森の湖の近く、そこだけ樹木が抜けている場所に出ると、ぺたん…と前足を追って草に蹲る。
今日は雲もなく本当に良い月光日和だ。前足に長い顎を乗せて上目で天に輝く月を眺めた。

綺麗に綺麗に、浮かぶ天の光。どうしてこんなに好きなのか、考えるまでもなく好きで。
じー…っと、飽く事なく、月光を浴び続けていた。

ふいに、彼の耳が、ぴくぴく…、と動いた。
獣特有の俊敏さで一瞬で立つ。がさがさと、森の置くから音が聞こえる。
これは人の気配だ。

恭弥は気持ちの良い時間を邪魔されて、低く喉奥で唸った。
こうした事は実は初めてではない。
この森は街から遠くない場所だから、酔狂な人間が散歩に来る事もある。
時には性質の悪そうな馬鹿な不良が来る事もある。

しかし、その度に恭弥は不躾な来訪者を追い返してやっていた。
大抵は姿を潜めて吠えるか、唸れば慌てて戻っていく。
馬鹿な気を起こして立ち向かおうとする奴には、暗闇から飛び掛ってやれば、その気を挫いて逃げ出す。

下手に姿を見せて噂になるのはごめんだから。野犬か何かだと思わせて追い返すのが一番良い。
恭弥は今回もその手でいこうと、開けた場所から木の影に身を隠した。
その人物が現れたら、吠えてやろうと思いながら。

「……あー…、ったく…。ここ何処だあ?…んで街に森があんだよー…」

そんな事をのん気にぼやきながら、その人物は茂みから姿を現した。
何だ、迷ってるの?まぬけな奴。
恭弥はそんな事を思いながら、吠え掛かろうとそちらを見て。息を飲んだ。

ふわふわと靡く金色の髪が、煌々と降りる月光に反射して輝いていた。
物憂げに俯いてかかった前髪を、さっと後ろに手で梳いて。隠れていた顔が天を仰いだ。
夜空に輝く月を見つけ、疲労した顔が、ふ…っと笑顔になる。
その柔らかな笑顔に、吠え掛かるのも忘れて釘付けになっていた。

綺麗だな。と純粋に思っていた。

見慣れない風貌が珍しかっただけかも知れないが。恭弥はもっと近くで見たいと思ってしまって。
今の自分の姿をすっかり忘れて、茂みから歩み出てしまっていた。

音もなく現れた一匹の狼に、金色をまとった青年はすぐに気付いた。
目を大きく開いて、彼が明らかに驚いた表情になっているのを見て。
ようやく恭弥は、自分が狼である事を思い出した。

(しまった。この姿を見せるなんて)

今さら脅かす事もできず、立ち止まってじっとしていた。
多分、彼はもうすぐ逃げ出すだろう。かかってくるような好戦的にも見えない。
常人の感覚なら、こんな獣が出てきたら逃げる。

それなのに。彼は数回瞳を瞬かせただけで、なんと、笑顔をこちらに向けたのである。
今度は恭弥が驚く番だった。彼はその場で座り込むと、あろう事かこちらに手招きをしてみせたのだ。
物怖じしない姿に恭弥は眉を寄せる。生憎、狼の表情が変わる事はなかったが。

「お前。暇ならオレの相手してくれよ。1人で迷っちまってさみしーんだ」

逡巡してじっとしていると、彼はそんな事を言って再度手招きした。
よほど度胸が据わっているのか、バカなのかわからなかったが。
近くで見たかった恭弥は、今度は誘われるままに近づいていく。
近づいてきた狼に、彼はますます笑顔を深くした。

綺麗だな。と、再度思った。
月光に梳ける金糸が風で揺らいで。きらきら光を生み出している。
この髪の所為だろうか。まるで月から現れたかのような容姿に、恭弥はすっかり見惚れてしまっていた。

手の届く所まできた狼を、青年は嬉しそうに撫でた。
黒曜石のような瞳が、じい…っと見つめるのに、照れ臭そうにはにかんで。
「何だ、オレに興味あるか?食っても美味くないぜ?」などと揶揄って肩を竦める。

「オレな、ディーノってゆーんだ。ディーノ。お前、綺麗だな。それに大人しいな、飼われてるように見えないのに」

ディーノ、と名乗った彼は、何も返答がないのを良い事に、恭弥に話し掛ける。
答えられないのは当然だが。動物に話し掛ける性質の人は特に珍しくはない。
おかしいのは、どう見てもペットとは思えない狼の自分に、容易に触れてくる事だ。

本当に寂しかったのか。ディーノはつらつらと離しながら、恭弥の頭を、背を、耳を撫でてくる。

触れる手が心地良かった。喋るトーンの耳障りが良かった。何より、月光にも見まごう金の髪が綺麗だった。
初めて会った人物に、こんなに惹かれたのは初めてだった。
恭弥は気持ち良さそうに喉を鳴らすと、ディーノの横にペタン…と身体を寄せた。

「何だ?お前も寂しかったのか?可愛いなー、お前」

この姿に、そんな風に言って触れるのは、あなたくらいだと思うよ。
珍しい人間も居たものだと、恭弥は薄目を開けて、自分を撫でる彼を見ると。
じっと、月を眺めているのと同じような感覚に捕らわれる。
月に焦がれるのと同じように、魅せられている自分がいた。とても心地良い、気を発する人だった。

それからどれくらい経っただろう。ずっと撫でてくれていた手が、ふと止まった。
彼の膝に頭を乗せて、気持ち良さそうに目を閉じていた狼は、どうしたの?と言う風に、喉を鳴らす。

「お前さ…、街に行く道なんてわかんねーよなぁ…」

青年は溜息と共にそう言って、苦笑した。
その時に、恭弥は彼と別れなきゃ行けない事に気付いて愕然とした。
そんな当たり前の事なのに、悲しくなっている自分に、愕然とした。

恭弥は小さく小さく、喉奥で鳴く。
その声がまるで、親とはぐれた子狼が鳴くような寂しげなもので、ディーノは目を見開いた。
戸惑っている彼を他所に、恭弥は立ち上がると。顎をくい…、と森の方に向けて歩き出した。

「……道、案内してくれるのか?お前…」

立ち止まる様子のない狼に、ディーノは慌てて腰を上げると、尻尾を目印に付いていく。
ほどなくして、森から抜ける道へと辿り付いた。

「あ、ここだ!わからなくなったとこ。助かった、これで帰れるぜ!ありがとな!」

見知った場所に出て表情を明るくしたディーノは、膝をついて狼をぎゅう…と抱き締めた。
恭弥はその頬を、ぺろ…と舐めると。するりとその腕から逃げていく。

「いっちまうのか?…寂しいな。お前……、名前…わかればなぁ…」

呼びようもない言葉を飲み込んで、ディーノは寂しげに微笑んだ。
狼はそれに小さく鳴いて答えると、青年の耳に、微かに聞こえた言葉があった。

「……きょー…や?」

何故か口をついて出た名前に。狼は大きく尻尾を振ると。
森の暗闇へと消えて行った。





翌日。
ディーノは太陽の光の中、不思議な体験をした森に再び出向いていた。
最後に振り返った、吸い込まれるような黒い瞳が脳裏に焼き付いて。
もう一度あの狼に会いたくて仕方なかったのだ。

ここに来ても会えるかどうかわかんねーのに。

それでもディーノは、森の中に入って。昨夜別れた道まで進んだ。
すると、がさり…と茂みが揺らぐ音がして。もしやと思って、ディーノは振り返る。

しかしそこに居たのは自分が望んだ狼ではなく。1人の少年だった。
木の影から、じっとこちらを見る黒い瞳が。どこかで見たような気がして。
ディーノは目を瞬かせた。

「…よぉ。お前…、この辺に住んでんの?…あのさ、ここら辺で狼とか…、見かけねーよなぁ…」
「……知ってるよ。黒がかった銀色の、狼でしょ?」
「え!?ホントに?オレ、あいつにもっかい会いたくてさ!居るとこ知ってたら教えてくれよ」
「良いよ、教えてあげる。……その前に、あなた。…名前は?」
「あぁ、悪い。オレはディーノ。よろしくな!お前は?」
「僕?…僕は―――……」


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2008.01.23


ケモノ耳と被ってないか?これ(笑)貰ってきたパラレルお題第一弾です。
何か熱でぼーっとしながら考えたネタなので、ずいぶんとメルヘンになってますね(笑)なんだこれ。
しかも出会いで終わってるし!今後のお題も楽しそうなのばっかりで、どれから手をつけようか迷ってます(笑)
何かパラレル楽しいな〜(笑)でも、次はちゃんと現代の更新にしますので。のでので。
このお題、10題の中。続編が見たいとか、反対Verが見たいとか、リクがあれば書こうかなと思います…(笑)