2:血の吸えない吸血鬼
ふわふわ、ふわふわ。月夜の空を漂う影が一つ。
月の光に照らされて、キラキラと金色の髪が輝いている。
少年に見えるその存在の、年の頃は12〜3歳くらいだろうか。
柔らかそうな金の猫っ毛に包まれた顔は、まだあどけなさが残っていて。
可愛らしいとさえ思えるほど、整っているものだった。
その姿は、誰がどうみても、華奢な少年にしか見えなかったのだが。
彼は翼もなく、確かに空を飛んでいた。生身で空を飛べる人間など、この世界にはいない。
そんな人外の存在が見咎められたら大騒ぎになる所だが。
少年は隠れようともせず、ふらふらと空中を彷徨っている。
そう、「ふらふら」と形容する通り、その動きは実に危なっかしい。
「あー、もう駄目だ」
いつ落ちてもおかしくないと、思わせる不安定な存在が、ぽつりと呟いた時。
言葉を表すかのように、すー…と、高い空から下がっていく。
スピードは緩やかなため、落ちているのではなく、降りているのだとわかる。
丁度良さそうな建物の屋上を見つけると、彼は少しだけ軌道修正して、そこへ降り立った。
「……腹へったー…」
情けない声を出して、着いた屋上にへたりこむ。
彼が独りごちたのと同じタイミングで、きゅるるる…とお腹の鳴る音が聞こえた。
よほど空腹を覚えているのだろう、盛大な音が回りに響いた。
「…吸えるようになるまで帰ってくるなとか。ホント、あいつは鬼だ…」
ぱたり…と、冷たいコンクリに寝そべって、彼はぶちぶちと愚痴った。
あいつ、と言って彼の脳裏に小さな家庭教師の姿が思い浮かぶ。
自分専属の家庭教師。彼の言う事は確かに正しい、正しいが…
(やり方が荒っぽ過ぎんだよ)
ほんの数日前までは、ぬくぬくと家の中で過ごしていたのに。
非情な家庭教師はそんな彼を引っ張り出し、ぽーい…と外へと放り出していた。
『おい、へなちょこディーノ。お前いつまで保存血液に頼るつもりだ。いっぱしの吸血鬼なら、人間の血を吸ってこい』
そんな風に淡々と言われて、少年…ディーノは、家から蹴りだされてしまったのだ。
そう、彼は人間とは違う。古くからある吸血鬼の一族だった。
吸血鬼と言うと化け物のイメージがあるが。
彼らは少しだけ人間から血を貰うだけで、人間の社会に溶け込んで暮らしていた。
吸血による実害は全くなく、しかも隠せるため彼らの存在は明るみには出ていない。
中には人間と結婚したものもいて、協力してくれる人間は血の提供…言わば献血までしてくれる。
人間から血を奪うのを好まない者たちは、仲間になった人間が提供する保存血液を糧にしたりもしていた。
このディーノもその中の一人だ。
彼がただの(この言い方もおかしいが)吸血鬼だったなら、それでも問題はなかったが。
彼は一族でも有数の名家で。しかも次代のボスだった。
そんな彼が自ら糧も調達できないようでは、情けない事このうえなく。
示しがつかないと言って、家庭教師に追い出されてしまったのだ。
温厚な人間が住むと言う、この国にほっぽり出されてからかれこれ3日ほど。
その間、栄養になるものは何も口にしていない。
彼らが糧にする血はほんの1口2口で、それ以外では食物からも摂取できるのだが。
異国で放り出された身では、それすらも取れないでいた。
血さえ飲めれば食事も要らないのだが…。
背に腹は変えられないとは言え、ここまで来てもディーノは人間から血を吸う事ができずにいた。
皮膚に牙を立てて血を吸うなんて、恐ろしくてできやしなかったのだ。
(へなちょこって、言われてもしかたねー…)
ごろん…と冷たくて気持ちいいコンクリで寝返りを打って、長く溜息をつく。
別に彼は、人間が怖いわけではなかった。身近に優しい人間の仲間はたくさんいて慣れていたし、むしろ好きだった。
だからこそ、その人間を傷つける行為が、嫌でたまらなかったのだ。
家で働く者達は「ぼっちゃんは優しいからなー」と笑って言ってくれるのに。
厳しい家庭教師は容赦がないから、このまま何もできずに帰ったら何をされるかわからない。
どうすっかなー…と、ごろんごろろんと、転がって思案している時。
急激に嫌な予感がして、ディーノはごろろろろん!と身体を何回転かしてその場から遠ざかった。
ガキィィィィ…!!!と、激しい打撃音が後に残り。
一回転して身体を起こしたディーノは、自分の本能にとにかく感謝した。
先ほどまで居た所が見事に陥没していて。もしあの打撃をくらっていたらと思うと、背筋がぞっとする。
「なーーーーっ!?」
「君は誰だい」
その攻撃を食らわした人物が、舌打ちして地面を穿っていた武器を上げ、身体を起こした。
(そ、その言葉は攻撃をしてから言う事なのかーーー!?)
突然すぎる登場の仕方に、ディーノは目を白黒させる。
「お…、オレはディーノ…」
「ふうん」
誰、と聞かれたから何となく答えてみたが。その人物は別に名前に興味があるわけじゃないらしい。
そいつは、自分から2〜3歳上くらいだろうか、それでもまだ少年と言える細身の男だった。
黒い髪に黒い瞳は、この国の人間の特徴のようだが。
しかし、この国…日本ってやつぁ、温厚な人間が住んでんじゃなかったのかよ!?
「名前なんてどうでも良いけど。ここは僕の学校なんだ、出て行ってくれない?」
そいつは淡々と言うと、武器をじゃきん…と構える。
ヤッベ…と、思いながらディーノは後ずさりした。
「それとも、君は遊んでくれるのかい?」
「へ?」
「僕の攻撃をかわした所をみると、少しはできるようだけど」
好戦的な光を瞳に湛えて、その少年はにやり…と笑う。
(どこが温厚なんだ、どこが!)
ディーノは心の中で、自分をここに放り出した家庭教師を批難する。
「ま、待て待て!!オレはそーゆうの好きじゃない!ここに居たのは、帰る場所がなくって…」
「―――何だ、家出少年かい?」
「う…。い、いや…わけあって、家を追い出されちまって…」
帰れなく…て。と尻すぼみになっていく声に、黒髪の少年は、呆れたように嘆息した。
「君の家の事情は僕には関係ないよ。ここから居なくなってくれれば」
「そ…そだよな。自分の領域に入られたら嫌だもんな。ごめん、出てくからさ、怒らないでよ」
もともと根が素直なディーノは、苛立たしげに言う彼に悪びれて謝罪すると。
ふわり…と、宙に浮いて文字通り出て行こうとした。普通の人間は飛んだりできない事をすっかり失念して。
相手に背を向けて飛び立とうとして、後ろからぐい…と腕を引かれた。
「うわっととととぉ!?!」
浮いていた不安定な状態だったため、あっさりとバランスを崩して少年の方へと引きずり落とされて行く。
「……君、何なの今の?浮いたよね?」
「え?…あ、…あ!!…い、いや……」
ディーノの右腕をぎり…、と強く握って不信感を露わにする相手に、ようやく自分がしくじった事を悟る。
バッカじゃねーか!?オレ!!飛んだりする事に慣れた人間が、周りにたくさん居たから忘れていた。
容赦なく握力をかけてくる腕に、痛みに顔が歪む。
「…ちょ…、ちょっと特殊な力が、ある…だけだよ!離してってば」
「―――この街に、そんな得体の知れない者が居ると困るな。取り合えず、捕獲させてもらう」
彼はそう言って睨みつけてから、ディーノの腕を掴んだまま、ずんずんと歩き出した。
力の強さに振りほどけなくて、なすがまま引きずられて行く。
「ど、どこに行くんだよぉー!!」
「暴れると咬み殺すよ。ひとまず僕の家で調べさせてもらうから」
「えー!!?調べるってなんだよー!?嫌だよ、離せー!」
「――――煩いな」
ひとまず眠って。と聞いたのが最後。
ぱっと手を離してくれたと思ったら、そいつは瞬間に出した棒のような武器でオレを殴りやがったんだ。
そうしてオレの意識は、すっ飛んでいった。
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2008.03.19